2014年08月26日

賢哲を愛する


社会の基盤を用意するのは大人の役割。それを受け継ぎ創って行くのは子どもの役割。大人は、子どもの創造力に叶わない。大人の手助けが無ければ創造出来ない内は、子どもは子ども。しかし、子どもが創造出来る大人になった時、大人は子どもにとって正しい助言者とならねばならない。子どもの創造力を妨げる事は許されない。大人の言葉は毒を持ち、大人の言葉は子どもを殺す。大人はその意味を深く知って、上手に子どもと距離を置き、子どもが助言を求めた時に的確に助言のみ行うべき。

この世の中には余計なお節介も含めて、多くの助言が日常茶飯事に飛び交っています。しかしながら同じ「助言」が、ある人には生かされ、ある人には生かされなかったりする。それを不思議に思わない人にとっては、そんな事は考えるまでも無い当たり前の事で終わる話。でも、そういう人は得てして、助言者の言葉と助言業者の言葉を(同じように)、聞いたような事と一緒くたにしてしまう。そうすると、本当に困った時に、絶対に聞いてはならない助言業者の売り言葉(嘘)を、助言者の救いの声のように勘違いして聞き入ってしまい、最悪、騙される。


「聞き分けの無い少数派の話」を書き始めて結構な時が経ちましたが、この話は、「宗教と権力」に纏わる話。宗教出現以前にも、賢哲を愛し、言葉を駆使し、物事の真理真相(深層の理)、全ての興りを説いた人達は存在する。そういう人達は、現代人からは「哲学者」のように称される。宗教より、哲学の方が先なのです。

哲学は、民を相手にしたと言うより、学びたい者に対して伝えられた言葉であり、学びたくない者、学ぶ機会を持たない者には「どうでもいい話」。しかし、賢哲を愛する者が王侯へ徳を説いた(助言した)からこそ、国家は国家として、部族は部族として有り得た。

この人達は生物学者や人類学者ではなく哲学者の類いであり、生物進化の話は「どうでいい話」であり、全ての始まりは「神の意志」の如く説く。国家(自国)の意味、部族(民族)の意味を、それを統率する立場にある者に説き、正しい治世に生かさせる事を生業とした。宗教ではなく、助言者(賢哲を愛する人)の哲理こそが社会史創成の大元。古代ギリシャ、古代エジプト、古代マケドニア、古代ローマに、宗教のようなものはあったでしょうけど、助言者の哲理こそが重要な位置を占めていた。

我が国も同様です。教徒が守るべき不文律の経典を持たない神道は、明確には宗教ではない。最初の神の使徒、天皇(陛下)のお言葉こそが絶対。天皇の代替わりがあれば、次の天皇のお言葉こそが絶対となる。神武天皇の言葉を受け継いで来たわけではなく、神武天皇が天皇と成り得た「アマテラス」や「イザナミ」「イザナギ」等々、神々の伝説こそを大事に受け継いだ。しかし、神々の事を説き、全ての事象現象に神が宿るという「八百万の神」への信仰心だけで道徳を守らせる事が出来なくなった。地震、津波、雷、台風(大風)、大雨、大雪・・・様々な自然の猛威に晒され、民の心は荒み、自然信仰を「どうでもいい話」であり、それよりも、メシを食わせろ、住処を与えろ、と欲求が不平不満を呼ぶ。

聖武天皇による大仏建立の詔が先だったのか、仏教の本格(政治)導入が先だったのか、説は色々あるでしょうけど、我が国は「仏に縋る」。つまり、仏教を知る者達へ助言を求めた。これが、天皇家と仏教の始まり。八百万信仰に基づく神社神道ありきの日本ではなく、神社神道は仏教の救いによってその地位を確立出来たと見るべき。  


Posted by weixingi at 17:22Comments(0)gmjnh