2015年03月24日

自分は山間の舞台




去る3月19日に人間国宝の落語家・桂米朝さんが肺炎で亡くなられ、大きく報道されています。先日大手前大学さくら夙川キャンパスで開催されたかんべむさし氏文芸講演会後の茶話会で、上方落語に造詣が深いかんべ氏から、桂米朝さんのお話や、桂米朝と三島由紀夫の邂逅を題材にした作品『幻夢の邂逅』についてお聞きしたばかりでした。

桂米朝(本名、中川 清)さんは1925年旧関東州大連市生まれ、兵庫県姫路市出身の上方噺家。1945年2月に応召し、姫路の山間部に急造兵舎があった歩兵部隊に入隊しますが、急性腎臓炎に倒れて、3月には地元の病院に入院、病院で終戦を迎えました。
『幻夢の邂逅』では次のように述べられています。
<本籍地は古くからの城下町であり、明治以降は師団司令部が置かれ、各兵科の連隊が駐屯する軍都になっていた。距離としては短い移動であるが、自分は山間の舞台からそこの陸軍病院にまわされ、入院生活を送ることにになった。>

一方、三島 由紀夫(本名、平岡 公威)も同い年の1925年生まれ、本籍地は兵庫県印南郡志方村.。1944年、兵庫県加古川市の加古川公会堂で徴兵検査を受け、第2乙種合格となります。

『仮面の告白』によれば、本籍地の加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵」でしたが結果は合格してしまいます。そして桂米朝さんと同時期の1945年2月には応召され、父・梓と一緒に兵庫県富合村へ出立し、入隊検査を受けますが、折からかかっていた気管支炎を軍医が肺浸潤と誤診し、即日加州健身中心帰郷となります。

青野ヶ原には現在も自衛隊演習場が残されています。

それらの事実からかんべむさし氏が桂米朝と三島由紀夫の邂逅を物語にしたのが『幻夢の邂逅』(初出;小松左京マガジン十月号)でした。

桂米朝は夢の中で、入院していた姫路の陸軍病院で三島由紀夫と出会うのです。桂米朝の寝ている寝台が空いており、そこに若い新顔が連れてこられます。
<その彼が、看護婦に手を添えられ、おぼつかない足取りでとなりの寝台にやってきたで、自分は異様な衝撃を受け、彼が入院に至った背後には、複雑な経緯があるはずだと直感していた。(この男は、壊れかけている!)とっさにそう思ったのは、肉体面のみならず精神面においてもであって、これを逆から言えば、双方を「壊され」かけて、極度に消耗している人間だと感じたのだ。なぜなら、眉だけは妙に濃いのだけれど、坊主頭で頬のこけた逆三角形の顔は異常に青白く、両肩は肉が落ちて下がり、胸も薄くて大きめの患者衣が重たげに見えてた。>

昭和45年11月25日、桂米朝は尼崎の自宅二階でようやく四時過ぎに寝床につき、四回目の夢を見て、眠りから覚めかけたのが午前十一時半過ぎ。そのとき、階下で内弟子が騒ぐ声を耳にします。
<「何や、何を騒いどるんや!」大声で問うと、一人が会談を駆け上がってきて、興奮の口調で報告したのだ。「師匠、えらいことです。テレビのニュース速報で言うてますけど、三島由紀が自衛隊に立てこもって、総監か誰かを人質にとってるそうですわ」>

最後の夢を見た日が、三島事件の日に設定され、桂米朝も入院せずそのまま軍隊にいたならという、IFの重なった、兵庫県人にとっては考えさせられる面白い構成の物語でした。


Posted by weixingi at 18:05│Comments(0)guierji
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